リモートコントロールの必要 上 僕と坂田さん |
|||
初めて坂田銀時に会ったときのことは良く覚えている。そこはアニメショップで、彼はおたくで、僕もおたくだった。今おもい返しても、あのときの自分はかなりひどい格好をしていたとおもう。おたくはおたくでも、美少女になぞひとかけらの興味もない僕がアニメショップを訪れたのは、留年か卒業かをかけた追試中で身動きが取れないサークルの先輩のお使いのためで、無駄に肌を露わにした少女の人形の群れや、寒さもしのげないくらい薄い本に高い金を使う男たちのテンションになけなしのエナジーを吸い取られて、そのときの僕はもう衰弱死寸前だった。両腕に人形や薄い本が入った袋を吊して、左手には先輩の意外に整った字で書かれたメモをつまみ、狭い通路をぜいぜい言いながら歩く。いや、行軍する。なぜこの現代日本で、パーソナル・コンピュータさえあれば生きてゆけるこの社会で、こんなおもいをしなければならないのか。すべての元凶は先輩の近藤なのだが、自分にも幾分悪い点があるのも事実だった。おひとよし。自分の性質の核になっているこの一見人畜無害な5文字に、僕がどれだけ苦しめられてきたか。実家にいたころは、生活能力のない姉さんにかわって、彼女の部屋の掃除やら洗濯やらをぶつぶつ言いながらも請け負ってきたし、去年初めて出来た恋人も、結局駅までの送迎のときしか「愛してる」と言ってくれなかった。2週間で別れた。というか、彼女に車の鍵を返した。おひとよしね、いいひとね、と言われ続けた14日間のあとに残ったのはただ自己嫌悪のみで、ちょっぴり二次元にしか興味のない男たちの気持ちがわかった様な気がした。でも、それはそんな気がしただけで、今日一日おたくの渦にもまれたあとの僕は、美少女というものが死ぬほど嫌いになっていた。早く家に帰ってベンチマークがやりたい。僕の気分とは裏腹に今日は凛と晴れていたし、湿度も低そうだ。きっと昨日より良い点が叩き出せるに違いない。パーソナル・コンピュータは部屋の掃除をしろとは言わないし、僕にわたしのBMWで駅まで行って頂戴とも言わないじゃないか。もう僕にはパーソナル・コンピュータしか要らない。そう考えた瞬間に、部屋で自分の帰りを待つ愛機の声が耳の奥で聞こえた。早く帰ってきてとうしろうさん!わかった、さっさと人形を買って帰るよ。メモの最後には、『オルレアンメイデン』の主人公ジャンヌちゃんのフィギュア・岸壁の百合乙女バージョン(出来るだけ箱に傷がないもの)と近藤の几帳面な字で記されていた。見たことも聞いたこともないアニメだったが、お使いがこれで終わるとおもうと、心なしか足取りも軽い。ぶら下げた荷物でおたく共を攻撃しながら、店の奥地にひっそりと並べられていた「ジャンヌちゃん」までたどり着く。ここでもきっちり箱に傷がないものを探している自分がいて、やはり僕はおひとよしなんだなと軽く落ち込んだ。5箱ほど比較したあと、これかな、とおもう1箱を手に取る。敵将討ち取ったり。これを買えばやっと帰れる、と勇み足でレジを目差そうとしたとき、不意に手首を掴まれた。どさどさ、と掴まれていないほうの手から荷物が滑り落ちる。咄嗟に「何するんですか」と突然僕の手首を掴んだ男を睨んだ。今日一日散々な目にあった僕より、幾段もひどい格好をした男だった。癖なのか寝癖なのか、非現実的な銀色の髪は自由にぴょんぴょんはね、鼻でかけた大きな眼鏡のレンズは曇り、にこぉ、と笑った口元から覗く歯だけがやけに白い。何だこの男。本能的に後ずさろうとするが、手首を掴む彼の力は半端ではなかった。おそるおそるもう一度、「何するんですか」と言ってみる。すると男は潤んだ目で、間髪を入れずに話し始めた。 「ああ、あなたもそれ買うんですか。並んだときに買っとかないとなかなかないですもんね、これ。僕なんかさんざんネットで調べたあげく三ヶ月待ちましたよ。でも待つ価値があるから。わかるでしょう?うん、二期とか三期がすきだってひとも多いんですが、やっぱり僕は初代だなあ。普通ね、背骨のね、こんな窪んでるラインとかきっちりつくったりなんかしないんですけどね、初代をデザインしたS氏はそれが許せなかったらしくて。え?S氏を知らない?ほら、あの『戦場の乙女たち』のプロトタイプになった漫画の原作者ですよ。月刊TAMTAMで一昨年まで連載してたやつ。え?それも知らない?…良ければ貸しましょうか??」 「は、はい」 頷くしかなかった。おひとよしの僕には断れなかった。 _| ̄|○という文字の羅列が僕の背中にのしかかる。得体の知れない男に完敗。それが、僕と坂田銀時の出会いだった。 手首をがっちり掴まれたままアニメショップから出ると、あれよあれよという間にタクシーに乗せられて、途中で牛丼を食べて、彼のこぢんまりしたアパートに案内されて、ふと気づいたらこたつに足を入れて『戦場の乙女たち』のプロトタイプになった漫画を読んでいた。床に置かれた小さなテレビのなかでは、ひらひらした原色の服を纏った少女たちが縦横無尽に跳ね回っていた。同じくこたつに足を入れた坂田銀時は、まだ潤んだ目で僕に果敢に話しかけてくる。そのたびに律儀に漫画から目を離して頷いたが、もちろん彼が何を言っているかはわからなかった。とにかく僕と出会ってから今までに彼が萌えと言った回数は天文学的な数字になっているのだろうな、とおもった。彼の話は深夜まで続き、一睡もしていない僕が部屋から出たのは翌日の朝だった。これが人生最初の朝帰りか、と再び自己嫌悪に陥りながら、坂田銀時に別れを告げる。手元には昨日買った有象無象と、彼のメールアドレスと、彼の髪が地毛だという情報と、途方もない疲労感だけが残っていた。帰りの電車から見える朝日を眺めながら、ベンチマークは明日にしよう、とおもった。 |
2006-1-29