ジー・イコール・ナイン・エイト | |||
この世界では雨や雪のように、男が降って来る。当然、初雪のように初男もあるのだ。 道路の真ん中に男が落ちていた。落ちてきた瞬間は見ていないから、ほんとうに落ちてきたのかはっきり証明はできないけれど、道路の真ん中で座り込み、いつつつと言いながら腰をさすっている以上、この男は上から落ちてきたのだろうと土方はおもった。 「ういいいー…」 道ばたで立ち止まりじっと見ている土方の前で、男は億劫そうに立ち上がる。男の銀色の髪から埃が落ちた。日光を乱反射しながら、埃は再び地面に向かってけだるげに落ちていく。もう一回ういいい、とストレッチのようなものをして、男はぺこりとお辞儀をした。 「どうも、初男です」 「…もうそんな時季ですか…。最近の気象庁はあてになりませんね」 「そうみたいっすね。みんな平気で布団干してっけど。小一時間もすりゃあ2人目3人目が日本のどっかに降るんじゃないですかね」 「はあ、そりゃ縁起が良くていい」 空を眺めて土方がそう言うと、男は、さっき立ち上がったときとはうってかわった大袈裟な動作でため息をついた。埃がまた落ちる。 「それが、そうでもねえんだよなあー」 「え?」 土方は視線を空から男にうつした。銀髪の初男なんているんだな、とその時初めて土方はおもった。 「最近の人間って、あんまり俺らに興味がないみたいなんだよなあ。今もぱっと見た限り、どこの家も玄関に餅置いてねえし。まあ、探して歩くから別にいいけど」 なるほど、初男信仰は都会のほうではすっかり廃れてしまっている。土方がこどもの頃は、この季節になるとどこの家も割り箸を刺した餅を玄関に置いたものだったが、今はもうそんな風習を続けている家のほうが稀なのだ。男が降る絶対数が減っているというのもあるが、最近では初男のほうから都会のごみごみした空気を嫌って田舎のほうに降ることも多い。 うん…、初男なんてもう滅多に見れるもんじゃないよな、と考えて、土方は男に 「あ…もし良かったら、もし良かったらなんですが、俺のうちに来ませんか?」 と言った。 箸と餅はそのへんのコンビニで適当に買おう。それでいいだろう。俺、今年厄年だしなあ。初男を家に呼べば、厄もちょっとぐらい和らぐかもしれないし。 今年になってから土方は、財布を1回、携帯を2回、自転車を2回盗まれている。加えてこれは自分の不注意でしかないのだが、家の鍵も2回落とした。2回目に鍵を落とした夜、絶対これ厄のせいだよと家の壁に向かって鬱憤を晴らしたら、大家に自分がとうに成人していることを忘れさせられるくらいこっぴどく叱られた。もうこんなのはこりごりなのだ。土方は初男の丸い目を見つめて頷いた。 「いいの?ほんとに」 と今度は男が目を輝かせて言う。 「どうぞどうぞ」 土方が男の手首を掴んで、さあ行きましょうと大股で歩き出した。やっと来た脱厄のチャンスを逃すわけにはいかないのだ。半ば引っ張られるかたちで男は土方についてゆく。スニーカーの紐がほどけそうなんだけど。初男は土方に何度も視線を送ったが、土方は気づくはずもない。砂埃を上げてひとつめの角を曲がったとき、初男はおもいだしたように言った。 「………もなんだけど」 土方は立ち止まる。砂埃はまだ舞ったままで、男の顔も改めて見ると砂だらけだった。 「何ですか?」 強く握った手首は話さずに、土方はにこやかに問いかけた。せっかくの福の神に逃げられると困るのである。 「俺、」 「はい」 「俺、ホモなんだけど、いい?」 土方の足がぴたりと止まった。顔には、さっきまで浮かべていた笑顔の残骸がべっとりとへばりついている。心なしか口元が緩んでいるのは、ほもってどういうひとだったっけ、という根本的な問いに思考を巡らせているからだろう。砂の舞う中しばらく逡巡したあと、土方は初男に問いかけた。 「…あのお、何日ぐらいいらっしゃいますか?」 「だいたい10日ぐらい?」 土方は頭に手を当てて半目になった。おお、とんちを考える一休さんに似ているな。初男がその様子をじっと見ていると、土方の顔が突然硬くなった。どうやら思考の結果が出たらしい。10日あればありうる…という顔だな、と初男はおもった。 「ちょっと待っててください。家に電話入れます!」 土方の喉から、明らかにいつもよりワントーン高い声が出た。焦りを見せないように注意を払いつつ、土方は角の公衆電話に向かった。2回目に携帯電話を盗まれた夜から、土方は携帯電話を携帯しないことに決めたのだ。外に出るときは電話ボックスのお世話になることにしている。 初男は一度ぱちり、と瞬きをして、 「家に誰かいるの?」 と聞いた。土方が一瞬びくっとして、ゆっくりと振り返る。 「いや、あの…あれ、お母さん!お母さんがいます!」 とっさに喉から出たのはさっきよりもっとひどい裏声だった。今の声どこから出たんだよ。てゆーかお母さんなんてどっからわいたんだよ。後悔と羞恥の入り交じった冷や汗をかきながら、土方は電話ボックスの扉を乱暴に閉めた。受話器を取り、適当に番号を押し、何となく喋っているふりをしながら、初男の様子を密かに伺う。もしもし。もしもし。あいうえお。かきくけこ。さしすせそ。たちつ、のあたりで初男がじっと自分を見ているのを確認し、受話器をなかば投げつけるように置いて、土方は電話ボックスから勢いよく飛び出した。 「あのお、少し問題があって…」 額に手を当てて、土方はとても残念そうな顔をつくった。 「何?」 「お餅が…」 「ないの?」 「はい」 今度は初男の顔が硬くなる番だった。柔和な表情を一変させ、男は地団駄を踏んで捲し立てた。スニーカーの紐はもうすっかりほどけてしまっている。 「おいふざけんなよ!お餅に割り箸刺して置かなきゃ、お前んち入れねえじゃねえか!」 「お母さんがパイナップルならすぐ用意できるって言ってるんですけど!」 「全然違うもんじゃねえか!そんなもんに割り箸刺したら、宇宙船みたいになっちゃうだろ!」 一息で怒鳴ったあと、銀の前髪を掻き上げて男はぜいぜいと息をついた。肩が苦しそうに上下している。 呆れたように、いいよもう俺お前んちいかねえから、と最後まで早口で言い切ると、初男はしゃがんでスニーカーの紐を結びなおした。 「………」 沈黙が数秒間訪れた。しゃがんだまま、初男は顔を上げずに 「………ごめん」 と言った。土方が泣きそうに背中をゆがめている。 「ごめん、言い過ぎた」 土方が左右に頭を振る。初男はよし、と靴ひもを引き締めて立ち上がり、 「じゃ、お前んち行っていいかな?」 と笑った。 「嫌です」 土方も笑った。 「うん、ああー…そっか」 至極当然のように、しかしすこし残念そうに初男は言った。また次探さなきゃなんねえな、と伸びをして、男は何事もなかったように土方のところから去っていく。遠ざかる背中を見ながら、これも厄のひとつだったのかな、と土方はおもった。 |
2007-5-19