月も濁るお江戸の夜だ

朱塗りの欄干が目に鮮やかな橋にもたれかかって、土方は一人煙草をふかしていた。墨を流したような夜空に一筋の煙が吸い込まれてゆく。その先に見事な月がぽかりと浮かんでいるのを目にして、土方は煙草をくゆらすのを止めた。

「名月を濁しちゃいけねえよな」

小声で一人ごちて、足下に捨てた煙草を靴の先で踏みつぶす。刀を握れば目の色変わり、喧嘩となれば血沸き立つ。そんなともすれば無粋になりかねない集団のトップにいるこの男もやはり江戸ッ子で、いっぱしの風流心は持ち合わせているのだった。直後に一息、口腔に僅かに残る煙を吐き出しながら、

(それにしても屯所では落ち着いて月も見れやしねえ)

と、土方はおもった。つい今しがた、屯所で沖田に言われた言葉が彼の脳裏をちかちかと横切る。


「土方さん、アンタ万事屋の旦那のことが好きなんですかィ?」


いつもの冗談とも本気ともつかないことを言うときと全く同じ、すこしだけ口角を上げた全くもっていけ好かない顔で。思わず喉を鳴らした土方の肩に手を置いて、寝言でまで名前を呼ぶなんてねィ、と面白そうに告げる。沖田が去ったあともしばらく淡々とそこに立ち竦んだ挙句、いてもたってもいられなくなった土方は、屯所を飛び出して来たのだった。



俺は、アイツのことが好きなのか?



月夜のもとで一人繰り返す、果てしない自問自答。一目会ったときから、沖田以上にいけ好かない銀色の男。その気だるそうな物言いも、筋の通ったものがないフラフラした姿勢も、こっちの言うこと言うことに突っかかってくるその態度も…、全てが土方には気に入らなかった。しかも、初めて剣を交わした時の借りでさえ、土方は返せていない。そんな自分の情けない様も相成って、銀時は土方にとってどうにも気に入らない存在であったはずだった。

じゃあ、こんなにアイツのことばかり考えてる俺ァ何なんだ?

もうすでにこれが悪あがきかも知れない、と闇に吐き掛けて天を仰ぐ。隣にいるときに見る横顔も、向かい合ったときの瞳の色も、首筋を掻く右手も、あえて君付けで呼んでくる通る声も。銀時の全ての仕草を、土方は簡単におもい浮かべることができた。ひとを好きになってはいけない法なんてないけれど…、けれど…


「どうしたもんかねェ」


闇は、ひとり佇む自分の呟きを静かに飲み込んでくれる。水面を見つめながらもう今日何本目かわからない煙草に火を付けようとしたとき、唐突に闇から「何が?」という返事が返ってきた。

「ねェ、何が『悪あがき』なのォ?」

月光に照り映える銀髪。よりによって本人が来てしまうとは、と、土方は背筋に激しく寒いものを感じた。バレたら何て言えばいい?嫌な汗が背中を滑る。俺ァどうすればいいんだ?また嫌な汗。努めて冷静に振舞おうとする土方の手から、煙草がするりと落ちた。

「んでテメエが来るんだよ」
「…何でそんなに怒ってんの?」

俺ジャンプ買いに来ただけだってば、と続ける銀時に、土方は目で答える。テメエのせいだよ。

「あ。魚見える」
「……」

銀時が欄干に腕をかける。動かない水面に二人の顔が並んで映った。早く行ってくれ、と呪文のように唱えても、心臓の鼓動はすこしも遅くならなかった。

「…何か言えよ」
「テメエにやる言葉なんぞねェ」
「いやだー土方君つめたーい」
「るせーな」
「ははーん、さてはかわいこちゃんにでもフられたか?」

早く行ってくれ。俺のこんなバカみたいな思いが露見する前に、早く行ってくれよ。



「嫌いなんだよ、テメエ」



やっとのことで絞り出した言葉が音になる。本心だかそうでないのか土方にはわからなかったが、満月がふう、と濁ったような気がした。隊服のポケットをまさぐって煙草を手に取ると、ライターの炎で紅蓮に照らされた銀時が、ほう、とため息をついて言った。


「俺ァおめーのことすきなんだけどな」


するり、今日二本目の煙草が無駄になる。もったいねえ、なんておもっている余裕は土方には微塵もなかった。冗談じゃねえ、と蚊の鳴くような声で呟きながら、橋の欄干に顔を沈める。顔だけが他人のもののように熱い。夜で良かった、とおもった。

「ホントに俺のこと嫌い?」

再び銀時が問う。土方が答えないのを見て、銀時は自分の右手を土方の左手の上に乗せた。指を絡める。そういえば、この前寝た遊女が言っていたっけ。これ、恋人つなぎ言うんえ、土方はん。

「……知らねえ」
「ん」
「知らねえよ」

繋いだ手から流れ込んでくる得体の知れない情念。闇の質量。自分を責め続ける心臓の鼓動。知らないなんてもんじゃない。火照った頬を慰めてほしいのは誰の掌かなんて、ずっと前から知っていたのに。微かに笑って手を握り返す。三度目の知らねえ、は、言わなかった。けれどすき、とも言わなかった。代わりに、

「絶対にテメエの前では言わねえ」

と夜空を見上げる。銀時からの返事はなかった。闇に流れる互いの心臓の音だけが、空気をほのかに動かしていた。静寂。倫理。落とした煙草。水面の二つの影が重なると同時に、頭上の月がふうわりと揺れたような気がした。

2005-10-1