不実な夜に背いて僕を見て | |||
路地裏に追いつめられていた。異形のものが跋扈する満月の晩、黒いマントに身を包んだ怪物が、一歩一歩土方の方へ歩み寄ってくる。思わず後ずさると、慈悲もなく後ろはもう冷たい煉瓦の壁。左右もがっちりと煉瓦で囲まれた袋小路だ。最後の希望と空を見上げてみると、得体の知れない無数の光が、自分をき、と睨んでいるのが見えた。残る正面ではやはり怪物が、かつん、かつん、と闇に乾いた靴の音を響かせている。距離が縮まるたびに、怪物のたっぷりとした天鵞絨のマントが、柔らかな陰影を造るのが見えた。彼の口元からは真白い牙が二本、剣の様に覗いている。そこにまだぬらぬらと生々しい血が付着しているのを認めて、土方は地面にぺたん、と座り込んだ。怪物の両腕が肩に掛かる。その彫像のようなひんやりした感触におののきながら、土方は目を閉じた。その首筋に鋭い犬歯がゆっくりと食い込んで――― 「とりっくおあとりーと?」 聞き慣れない異国の言葉を浴びせられて、土方は布団から飛び起きた。行灯の光に目が慣れるまで一秒、二秒。三秒目で、ようやく自分は悪夢を見ていたのだということを認識し、四秒目で、自分を面白そうに見つめている銀時の視線に気がついた。 「なっ…テメッ…」 黒い天鵞絨のマント。口腔からにょっきりと生えた二本の牙。今しがたまで彷徨っていた悪夢の中から抜け出て来た様な出で立ちの銀時に驚きを隠せずに、土方は半身だけ起き上がって目を見開いた。たらたらと油汗を流している土方に向かって、銀時は 「あれェわかんない?」 と首を傾げて見せた。ふざけた格好しやがって、と土方が胡坐をかく。気持ちが悪いくらい眠気は覚めていた。 「土方君知らなかったの?俺実は満月の夜だけ吸血鬼になるンだよ」 「…蚊の間違いだろ」 「まァ蚊なんて汚らわしい」 俺は誇り高き孤高の吸血鬼なの、と銀時が胸を叩いた。そういえば今日の昼間、総悟もカボチャオバケみたいなのをかぶって練り歩いていたっけ。菓子をくれなきゃイタズラしますぜ、なんて言いやがるから、最近ダイエット中の近藤さんから取り上げた羽二重を与えておいた。「総悟のイタズラ」は、死に直結していることが目に見えているので、できるだけ穏便な方法で避けようとおもったのだ。 きっと今日はそういう日なのだろう。異国の文化を理解する気の無い自分には、まるきり縁の無い話であるが。 「待ってろ」 と言って、書見台の引き出しを開ける。近藤さんの羽二重がまだあったはずだ。運のいいことに、手前に入っていた羽二重はまだ硬くはなっていなかった。薄紙に包まれたそれを、銀時に手渡す。近藤さんのことだからそんな高級なものではないだろうが、甘いものならとりあえずコイツは喜ぶだろう。 しかし意外にも銀時は菓子を受け取らなかった。一度白い指でつまんで、土方のてのひらの上に乗せ、はあ、と息を吐いた。柔らかい餅の感触が、土方の五感を駆けめぐった。 「わかってねえなー、オメエは」 銀時の口角が、くい、とあがる。含みのある“にやり”に闇が呼応して、長く突き出た犬歯を艶めかせた。 「銀サンは満月の夜、吸血鬼になるって言っただろ?」 天鵞絨のてろりとした表面が土方の頬をかすった。僅かに血の匂い。直後、銀時の両腕が肩に掛かる。その彫像のようなひんやりした感触におののきながら、土方は目を閉じた。その首筋に鋭い犬歯がゆっくりと食い込んで――― 「だから今夜は羽二重よりも、土方君が欲しいのよ」 甘噛みされた首元がぼんやりと熱を放ち、掻かれて、吸われて、枯渇する。空になった自分の残像が瞼の裏に映った。再び血の香り。今夜はこのまま夜に任せよう、と、銀時の背中を両腕で抱えた。 そして堕ちてゆく。 |
2005-10-31