クリスマスには僕は行かない

「先生、ケーキ食べません?」

インターフォンの無いワンルームのアパートの扉を、黒い制服を着た男子生徒が叩いていた。冷気が足を食む様な寒さのなか、男子生徒の白い息だけが闇に緩やかな熱を放出している。ロックをはずす音。すぐにクリーム色に塗られた鉄の扉が開き、ひとりの男がひょっこりと顔を出した。

「…こんばんは」
「こんばんは土方君」

玄関といえるかどうかわからないほど小さな玄関に裸足で降りてきて、男は眼鏡の下の眠そうな目をスライドさせた。目線の先には、男子生徒が抱える白い真四角の箱がある。エンボス加工のMerry X'masという文字と、赤いリボンに包まれた箱。

「どうしたの、それ」
「もらいました」
「くれんの、俺に」
「はい」
「ふうん」

じゃ遠慮無く、と男が箱を受け取ると、土方はぺこ、と頭を下げた。耳が寒さで赤くなっている。艶めいた黒髪に覆われた土方の後頭部を見つめながら、男が訊ねた。

「一緒に食わない?」
「別に」
「別に、何?」
「何でもありません」
「じゃ、一緒に喰おう」

入って、と男が扉を大きく開ける。土方が白いスニーカーを脱いで部屋にあがる。かがんで靴をきっちり揃えた。

「へえ」
「何ですか」
「いや、意外だな、っておもって」
「何をですか」
「今、靴揃えたでしょ」
「あー…」

これのことか。土方が胸ポケットを押さえた。煙草の箱の角が小指の第一関節にかかる。このワンルームのアパートから、煙草の匂いはしなかった。

煙草を吸う生徒、それも教師の前で堂々と吸う生徒などそういないが、土方はその数少ない生徒のうちの一人だった。土方が煙草を吸うのは決まって第一校舎の屋上で、時折そこに現れる銀八は、土方を咎めるでもなく、叱るでもなく、ただ横に座って他愛もない世間話をしていくのだった。クラスでの存在感はほとんどない。授業に積極的に取り組んでいるわけでもない。学校での銀八と土方の繋がりは、屋上での会話だけだった。

銀八は土方を座布団に座らせると、戸棚からフォークを二本取り出した。肘で戸棚の扉を閉め、冷蔵庫を開ける。缶ビールを一本小脇に抱えて、土方の向かいに どす、と腰を下ろした。狭いこたつの中で足が当たる。土方が慌てて足を引っ込めると、銀八は何も言わずに少し微笑んだ。

「てゆかさ、誰から貰ったのこのケーキ」
「女ですけど」
「ですけどってお前」
「いや、別に嬉しくないんで」
「イヤミ?」
「違います」
「じゃあ何」

銀八がテキパキとビールをグラスに注ぎ、灰皿を土方に寄越す。飲めンの、という銀八の問いに、土方が首を横に振って答えると、銀八はこたつから出ずに、床に立ててあったポカリスエットの缶のホコリを拭った。たぶんまだいけるとおもう、と言って土方に缶を手渡す。缶底に印刷された賞味期限は12月26日。明日だった。

「ではケーキいきまーす」

冗談めかしてちらちらと土方を見ながら、銀八がケーキを箱から出すと、生クリームの甘ったるい匂いが部屋に広がった。うわ頭溶けそ、と土方が目の前のカロリーの塊を忌まわしそうに一瞥する。と同時に、銀八がええー、と情けない声を上げた。マジかよ、非道い仕打ちだな。わたしが何をやったって言うの。

「…すみません」

箱の中のケーキは原形をとどめていなかった。生クリームは箱の内側の四方にべっとりと付き、苺が大規模な雪崩を起こしていた。スポンジが虚しくもぺしゃんこに潰れている上に、砂糖菓子のサンタクロースの首はもげて、横倒れになったチョコレートの家の横に転がっている。文字通りの大惨事だった。

「これ本当にもらったの?」
「投げられました」
「女の子に?」
「はあ、まあ」
「振られたの」
「…振りました」

うわあ、と銀八が眉をひそめる。「なんで振っちゃったの」「別に」と土方。


「別に、何?」
「何でもありません」


「またそれかよ」

ま、味は変わらんよな、と銀八がケーキを口に運んだ。一口。二口。家喰っていい、と土方を見て、返事を待たずにチョコレートにフォークを刺す。バリ、という音。これは本当にケーキなんだろうか。ケーキという名を借りた毒なんじゃないだろうか。生クリームを模した兵器なんじゃないだろうか。フォークの先をくわえたまま土方はおもう。首のもげたサンタクロースと目が合った。どんどん膨らんでいって、爆発して、俺らなんて跡形もなく消し去るくらいの威力を持った兵器。ついさっき振った女の顔が浮かぶ。泣いていた。大嫌い。大嫌い。大嫌い。土方君なんか死ねばいい。これが本当に兵器なら、俺は銀八と死ぬのか、と土方はおもった。なんだか悪くない気がした。

食べないの、と銀八が口角の生クリームを親指で拭い、缶ビールに一口つけて指をぺろ、と舐めた。こたつの上のケーキは、大目に見ても既に半分以上が処理されている。「ないな、ない」と土方が呟く。「何が」銀八がフォークを動かす手を止めた。


「何でもありません」

「…またそれかよ」


土方はようやくポカリの缶を開けて、真白いケーキを食べた。生クリームが土方の体温で溶けて、舌の上で液体になった。やけに鼻に抜けていかない甘い香りごと、土方は口の中の物をあまり噛まずに飲み込んだ。スポンジのざらついた感触が喉を通ったが、それはやはり甘いだけだった。

2005-12-25